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頑張れ、日本!(後編)

 

 

真っ青に晴れわたった空と森の木々が織りなす原色の風景。

直ぐ下には陸上トラックがだだっ広く続く。アメリカも湿度の違いか、気候の違いで中西部は特に景色が濃く見える。草の波が寝ては起きる。青い虫が時折飛ぶ。まだひ弱い蝶が、草を離れ、草にすがっては、何処ともなく去っていく。

今日も真夏日。そして、最終日。

 

 

1991年 7月27日 日本チーム 最後の望みをリレーに託す。

 

朝チーム全員で朝食を済ませた頃には昨日の事はすっかり過去の事の様に、みんなの顔は最終日への期待に輝いて見えたのは僕がそれ以上に思い入れていたからだろうか。Yujiも毎朝見るいつもの顔と何の違いも見れなかった。昨晩あれからも彼なりに気持ちをコントロールしていたのだろうか。多少目が腫れていた感があったがそれも気になる程度のものでなかった。僕はトレーナーの立場だけでなく、縁あって彼と仲良く出来た、それも今日で最後という友達の立場から彼に話しかけていった。これが終わればチームは帰国。縁があれば又いつか逢えるだろう。悔いのないように最後までチームと一つでいたい。

 

スタートやバトンのつなぎの練習、軽いダッシュなどウォームアップをすませて午後に控えた対抗リレーのトラックに着く。ボランティアの人達が尋常でなく多いのはスペシャルオリンピックの特徴だろう。選手はスタート待ちの控えの部屋で各国の国旗やロゴの入ったオリンピック用のピンや小物を交換し合っている。緊張しているのはもしかして自分だけのような錯覚をみる。だがここにいる全ての選手はこのリレーの為にどれだけ練習を重ねて来た事か。どれだけ夢見て来た事か。

 

ちょうど3年前のこの時期、ソウルオリンピックでのアメリカ陸上チームを思い出す。彼らにとって競技は人生そのものだった。その瞬間ひとつひとつがドラマだった。俺は当時駆け出しの22歳、英語もろくにしゃべれない新人トレーナーだった。ただスポーツ医学を専攻し、ちょっとテーピングと鍼灸治療が出来ただけで岩崎師匠(1984年 ロサンゼルスオリンピックアメリカ陸上チーム NIKEトレーナー)からこのバトンを頂いた。

トレーナーの心意気というバトンを。

 

 

選手控え室(写真上)でリラックスの為、写真など撮る。このオリンピックは何よりも選手彼らに楽しんでもらい、又社会での順応性を高め、モーティベーションを揚げる事も目的となっている。にもかかわらず僕の心はいっこうに落ち着かない。勝って欲しい。勝たせてあげたい。そればっかし。

 

リレーのポイントはバトンの受け渡しにもある。落としたり、ぶつかったりとスペシャルオリンピックでは予期しない事が多々起きる。それも考慮して順番が決められる。Yujiはもちろんアンカー。

 

僕はラッキーな事にトレーナー兼通訳の2つの入場パスを持っていたので選手と同じ様にどこにでもアクセス出来た。もちろん選手控え室もトラック内部のぎりぎりのスタート地点にも。選手より僕の方が緊張しているにもかかわらず落ち着いたふりして親指を立てて彼らにウインクする、、、(心の中で)頑張れよぉ!頑張れよぉ!

 

オンユアマーク。

ダァーン!

 

一斉に飛び出す。日本チーム出だしは3位。悪くない。うまくバトンも次に渡す。2番手ですこし遅れる。頑張れっ。3番手でまた少し盛り返す。祈り始める。そして最後アンカー。でもこんなに開かれては無理か。いや諦めるな!頑張れ!拳を握り、トレーナーという事も忘れ、僕は腰に巻いてたタオルを振り回し、わめき始めた。

 

頑張れぇ〜!抜けぇ〜!行けぇ〜!!!

 

それはかつて見た映画“炎のランナー”を彷彿させるような、何か動きが一瞬ストップモーションに見えたようだった。Yujiの足だけ回転しているような不思議な感覚だった。

 

行けぇ〜!コーナーで1人抜いた。あと1人!もうあと1人!

 

神様、お願いです。一生のお願いです。

彼にもう少し力をあげて下さい。お願いします。

ほんの数秒だった。僕は必死に応援しながら、祈っていた。

 

最終コーナーで並ぶ。その時トラックでわめいていたのは僕一人だったと思うが、そんなことはもうどうでも良かった。声が嗄れる寸前、彼は一瞬で抜き去った。と同時にゴール。

 

日本チーム応援席から、いや世界中が声援を送っていると間違えるぐらいのとてつもないスタジアムからの歓声が感動と共に波の様に押し掛け、自分の顔は見るも無惨なぐらい涙と鼻水でぐしょぐしょだった。でも勝ったよぉ〜。

あこがれの金メダルだぜ!一番きれいな色ってかぁ!

 

スポーツってなんて素晴らしいんだろう。なんて感動を人に与えてくれるんだろう。こんな世界で仕事がしたかった。プロでもオリンピックでも高校生でも小学生でも関係無かった。人に感動を伝える仕事を、それを陰で支えるだけで本当に幸せだった。

 

この感動をどう表現したらいいのか25歳の僕には見当もつかなかった。でも何かを僕から彼らに伝えたかった。僕は全く考えもなしに本部へ行き、自分の自己紹介をして、そしてあるお願いをした。

 

“ソウルオリンピックUSA陸上チームトレーナーです。僕にメダル授与のプレゼンテーターをさせて下さい。”

 

とんだ勘違いでした。自分でも言った後恥ずかしかった。興奮し過ぎだった。でも僕から鬼気とした何かを感じたのでしょうか。数分後、本部長がわざわざ出て来てくれて僕にメダル授与の流れを説明し始めた。

 

えぇっ?まじ?本当にいいの?

 

6位の入賞から、順に銅、銀、

 

そしてど真ん中、我が日本チーム、金!

 

メダルを渡す前のアナウンスで日本選手は手高く挙げて拍手した(写真下)。メダルをかける時、選手の誰かがなんでタケさんなのぉ〜ととぼけた事を言っていた。俺だってしらねぇ〜よ。やらせてくれたんだよ。睫毛は、からくも溢れるものを支えていたが涙が止まらなく出て来て、、、ただそれを止めようと瞬きばかりしていた。そして心のなかでは一人一人にメダルと共に栄光と感謝を渡す気持ちだった。

 

 

最後Yujiにメダルをかける時、僕は何も言えなかった。でも言いたい事はたくさんあったんだ。頑張ったね、、、感動をありがとう、、、よかったなぁ、、

でも(もう泣くまい)としていた涙が、滂沱(ぼうだ)となって彼の顔すら見えなくなってしまった。

 

そんな僕に彼はにっこり微笑みながらも、

少しはにかんでVサインをくれた。

 

 

 

エピローグ

 

あれから30年。彼らやコーチ(写真下)とはまだ会っていません。僕はあの夏からロングビーチ大学に入学しトレーナーになる為に色んな経験を積んできました。でも一つだけ変わっていないのはトレーナー業で辛い時、いつもあの感動を思い出しています。ちっちゃな感動も僕にとっては大きな支えになっています。そしてあの感動を身体いっぱいで感じられた事に今でも大きな感謝をしています。

 

 

 

“幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じる事の出来る心を手に入れるんじゃ”

                                               

甲本ヒロト(The Blue Hearts)

 

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