むか〜しむかし、18ちゃいの俺が高校卒業して鍼灸の専門学校(湯河原衛生学園=後の神奈川衛生学園)に入学した頃、それは1984年、ロサンゼルスオリンピックの年でした。茅ヶ崎ライフセーバーの警備長をして茶髪だった俺は学校に一番馴染めそうもない感じで先生方からの信頼も薄く、その海のバイトで貯めたお金も殆ど親に内緒で追試に使わなければ進級できない学科の成績もあまり良くない生徒でした。ただ鍼灸あん摩マッサージ指圧の技術には大変惹かれていてそこは一所懸命やっていたので学校の実技の成績はよかったです。特にマッサージは地元江ノ島の旅館をバイクで走り回ってやっていたのでかなりの経験を踏ませてもらいました。一日の施術の人数も増えると最初は指が腫れ上がったりもしたけどそんなこんなで小さな指も徐々に肥えていったのかも知れません。
今の鍼灸学生が美容鍼などエステと組み合わせて新しい分野を確立したように、俺はまだ未開に近かったアスリートを支えるスポーツ障害に対する鍼灸治療をずっと模索してました。そのロサンゼルスオリンピックの年はペップトークで著名で日本初の現場のアスレティックトレーナーであられる岩崎由純先生がナイキのトレーナーとして活躍されていました。そして岩崎師匠の大学の先輩であられる白石先生が米国でアスリートに鍼灸治療を施し脚光を浴びた記事を雑誌で読んだ年でした。その時のショックは大きかったのを今でも覚えてます。第一印象は先を越された、やられた〜みたいな感情だったと思うけど。もちろん俺なんか鍼灸学校一年生で技術も免許もなくただ夢だけもっていて先越されたもなにもないんだけど、それが正直な意見で当時世界で活躍されている方に絶大なリスペクトと羨望をもって学生生活を送っていました。
そんな俺も無事晴れて鍼灸師となり、1998年の春にNEC女子バレー部でトレーナーをしていた岩崎師匠の弟子としてトレーナー業を学びながら鍼灸治療を選手にしていました。当時のNECバレー部は日本リーグ(今のVリーグ)優勝チームであり全日本で活躍している選手も多くいました。今の全日本女子バレーの監督が当時の全日本のセッターでした。そんな時代です。初めて有名な選手の治療をしていささか興奮したのを今でも忘れません。
その年の秋のソウルオリンピックでは岩崎師匠のご紹介で米国オリンピック陸上チームのトレーナー兼鍼灸師としてちょっと大げさですが夢見てた世界デビューをさせて頂きました。もちろんチームにはユニフォームを頂いたカール・ルイス、ジョイナー、岩崎師匠の親友であられる三段跳び世界記録保持者であったウィリー・バンクスさんもいらして毎日がワクワクしてた素晴らしい思い出の頃です。世界的なアスリートに鍼灸治療をさせて頂き、テープを巻き、お世辞にも良くなったみたいなことを言って頂き、ちびりそうになりながらもこっちが逆にお礼を言ってました。英語なんかさっぱりわからんかったけどめっちゃ嬉しくて、テレビでしか見たこともないすっげー選手から声をかけられるなんてやっぱ22歳の駆け出しにはとんでもないくらいの勲章でした。
選手村のトレーニングルーム(俺は鍼灸治療もマッサージもテーピングも色々してたので一部屋もらってた)で治療してるとイギリス、ドイツ、オランダ、その他の国の選手も来てくれるようになりました。何しろ彼らと語学が全く通じなかったので手振りしながら顔の表情を変えて笑われながらも仲良くして頂きました。みんながお前の治療を世界でやれば面白いんじゃないかって言ってくれてまだそんなことしてる日本の鍼灸師はいなくて若いおっちょこちょいの俺は直ぐに行く決心をしました。どこに行くって世界でスポーツ先進国は米国、東ドイツ、そしてソ連(当時のお話ね)。その中で米国を選んだんだけど、もしベルリンかモスクワを選択してたら俺はどうなってたんだろう?
運良くというかその頃通っていたもうひとつの母校の東京衛生学園(スポーツ・トレーナー科)の姉妹校がカリフォルニア州立大学ロングビーチ校でこの大学が米国に於けるアスレティックトレーニングのリーディング校だったのは今でも不思議なご縁です。そして東京衛生学園からロングビーチに研修に行かせて頂き、トレーニングルームでヘッドトレーナーとお話させて頂き(英語がさっぱりわからんかったけど)必ずここに生徒として戻ってきますと言ってお別れしました。
そして翌年1989年8月20日に大きなカバンと小さな夢をもって単身渡米しました。
今思うと不思議な巡り合わせやご縁に囲まれた人生でした(まだ終わってないけど 笑)。
コロナ禍でここ2ヶ月ロックダウン状態と外出禁止令の中、ロサンゼルスのクリニックも閉めて家に籠もって、ふっと自分の軌跡と現状を考えます。今まで夢だけを支えに生きてきた自分も全ての夢が一段落して今後の動きを考えてる中、よく思うのはこの30年間のことです。こうやって読むとトントン拍子に来たように思われるけど実は色々障害を乗り越えてようやくたどり着いた今だったような気がします。歳も重ねるとだんだん弱気でネガティブなとこも出てきて特にこのコロナで色々吹っ飛んだこともあって俺だってたまに落ち込みます。多分日本のみんなも多かれ少なかれ被害を受けてると思うけど。自分ではどうしようもない不可抗力のようなこともいっぱいありました。今回のことも百年に一度とか言われるけどこんなことが人生で数回ありました。でもいつもなんとかなってた。もうアカンと思っても夢だけは捨てずにガムシャラだったから乗り越えられたような気がします。
今出来ること、今だから出来ることを考えてNo Attack No Chanceの気持ちでまた前に一歩進めたらいいな。特に若いみんなはこれからだしね。どれだけ踏ん張れるか、そしてその後どれだけ跳ね上がれるか。辛い今が本当の勝負時かも知れないよね。自分だけじゃないから、世界中のみんなが辛抱してるから。ここをしっかり乗り越えたい。本気で自分を信じてるやつは大丈夫。自分に嘘をついてないやつは大丈夫。18歳のガキの頃に雑誌で読んだ記事に足を震わせていた俺も初心を忘れないでいたからなんとか乗り越えてきた人生だったと思う。時代は変わっても変わんないもんもあると思う。
頑張れ俺。頑張れみんな!
早く素敵な風がいっぱい吹きますように!
“気運が来るまでの間、気長く待ち、あらゆる下準備を整えてゆくものが智者で ある。その気運が来るや、それを掴んでひと息に駆け上がる者を英雄という”
司馬遼太郎