知覧

昨日、鹿児島県知覧特攻平和会館に行ってきました。

最初に少しだけ、、、

日本は世界からの石油などの禁輸、最後通告としてハル・ノートを突きつけられ、大東亜戦争に突入します(詳細は正しい歴史を学んで下さい)。物資も乏しい中(石油は2年半分の備蓄)、最初は連戦連勝だったものの日本は徐々に制空権と制海権を失っていきます。それでも日本の大本営や新聞は連日うその戦果を報道し続け、日本国民の多くはその戦果を信じていました(本文参考)。

陸軍1036名のうち、知覧基地を飛び立って散華した勇士は439人でした。勇士とは陸軍特別攻撃隊。海軍の神風特別攻撃隊と同じ特攻隊員です。世界戦史に類のない攻撃法、特攻に生き残る可能性は全くありませんでした。まさにそれは必死隊であり、十死零生とも言われるものだったのです。

平和記念館の語り部のお話も聞かせて頂きました。

伍井中佐の遺書(右側)

第二三振武隊隊長の伍井芳夫中佐は32歳という特攻隊員一番の高齢でした(上の遺書右側)。ちょうど米軍が沖縄上陸を始めた昭和20年4月1日に沖縄に特攻します。伍井中佐の妻はその2日後にニュースで夫の戦死の知らせを聞きます。

二人の小さい子供と実は夫に心配させないようにと最後に面会した時には言えなかったお腹にいた男の赤ちゃんが生まれて既に4ヶ月でした。妻はその戦死の知らせのショックで立ちすくみ、それから母乳が出なくなりました。食糧難で食べるものがなかった時代のことです。赤ちゃんは栄養失調でその4ヶ月後に亡くなったそうです(語り部より)

しかしここにもっと哀しい一家の足跡があります。少年飛行兵の教育を担当した熊谷陸軍飛行学校の教官、藤井一中尉の一家の話です。当然のように藤井中尉の教え子が次々と特攻隊員として散華して行きます。一人の教官として誠実であればあるほど、教え子の散華は辛いものです。おまえたちだけを死なせはしないと口ぐせのように言っていたという彼は幾度も特攻を志願いたします。ところが、藤井中尉は既に30歳が近くなっていました。そのうえ妻と二人の子供までいたのです。そのような境遇の将校は特攻に採用しないというのが当時の原則でした。それをわかったうえでの志願だったのです。藤井中尉の苦悩はとても大きかったのでしょう。そんな夫の苦悩が妻に伝わらないはずはありません。

1944年12月15日の朝、「私達がいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、ひと足お先に逝って待っています」という遺書を残し、二人の女の子に晴れ着を着せ、飛行学校の近くを流れる川に身を投げたのでした。今では考えられない行為かも知れませんが、そのような尽くし方もあったのです。妻子のそのような死を聞いて、そのとき藤井中尉にどのような思いがあふれたかわかりません。しかし、彼の特攻への意志はさらに決定的なものになります。彼は改めて血書により嘆願し、軍もようやくその嘆願を受理するにいたります。藤井中尉は第四五振武隊に隊長として配属され、1945年5月27日に知覧飛行場に移動、翌日28日に第9次航空総攻撃に加わり散華します。29歳でした。藤井中尉の妻子入水を知っていた隊員たちの団結はとても強固なもので、その戦果もまたみごとなものでした(本文より)。

第五六振武隊の上原良司大尉も遺書で少し触れられていたことですが、自由主義を求めていたが気がつけば全体主義になっていたこの国で、言動や行動も制限されて、祖国の将来も危うくなった時、彼ら若者たちが自ら犠牲になったのかも知れません。今の日本もドラッグや不倫の話題が大好きでよってたかってのTVや偏見のマスコミに振り回されて、本当に国益に大事なことから気をそらされているようで外国から日本を見ると少し残念に思えます。

知覧基地から敵艦ひしめく沖縄までは約650キロメートル、隼では約2時間、九七式戦闘機では約2時間半の飛行時間であったようです。しかし、それはまさしくみずからの死を見つめる2時間余の飛行時間でもありました。その時、若者たちの胸にどのような思いが去来したのか、誰もわかりません(本文より)。

実際彼ら(一番上の表紙の写真)はいつも底抜けに明るく、その朗らかな態度に当地の人たちはみな驚いたという話が残っています。しかし、その内実は又別のものがあったのでしょう。出撃を前にした夜、第七十二振武隊の宴席で、ある者は郷里の家族を思い、ある者は死への恐怖を感じて泣き出したといいます(本文より)。

最後に戦闘機の操縦席に乗り込む際に足を上げた瞬間、もう二度と自分の足でこの大地を踏むことはないと思ったとき、人は何を思うのだろう(下の写真)。

特攻志願をしてからはいっぱい悩んで、苦しんで、中には後悔を感じた人、逃げ出したくなった人もいるかも知れないと思う。後に残す婚約者や妻や子供や親の顔を浮かべて何を考えたのだろうか。特攻で米国の航空母艦を目指したにもかかわらずそこまで辿り着けなかった機が多かったけど、最後に突っ込むときは何を思って、何を叫んだのだろう。

機上の人となり離陸する直前

特攻の戦果はたとえ少なくても、特攻隊の存在と活躍のおかげもあって米軍は安易に日本本土に近づけなかったといいます。そしてこんな若人が大勢死に行くことを大本営や国民にもう一度考えてもらいたくそのさきがけになれるならばと(大和の沖縄水上特攻も同じく)、愛する人や家族を守るために逝った人たちの気持ちを考えると、戦後になって簡単に敗残兵とか犬死とか(米軍からはクレージーと言われた)、一言では片付けられないと思います。

もし自分が明日の朝に出撃するのであればその時の気持ちはどんなものなのだろう。誰にどんな思いを伝えるのだろう。誰に何を書き残すのだろう。

例えや想像でその答えは出せないでしょう。でも悩んで、泣きつくして、最後には自分の生まれた事、またはその意義、死ぬ目的、そして家族への感謝、祖国や次世代のことを考えて、、、本当に最後に全てを断ち切れるのだろうか。

平和記念館の特攻隊員ひとりひとりの写真や遺書を見てきました。泣きすぎて頭痛やかなりの疲労も感じました。でも彼らの顔は晴々と透き通り、輝いて神々しくも勇ましく立派でした。遺書はこの世で最後の手紙として素晴らしい達筆で心打たれる文章でした。特攻を讃美したり、卑下したり、右や、左や、意見を言ったりとそんなことでなく、自分たちの先祖が何を考えて、どのように行動したのか、そしてその渡されたバトンをこれからどうすべきなのかを考えた末、本当に大事なことは先ずは真実を後世にしっかり伝えることだと思い、今回このブログに書かせてもらいました。コメントも嬉しいです。

長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。

最後になりましたが、英霊に合掌。

追伸  今回のテーマは深く少し重い題材となりました。もちろん内容が生と死についてだし、我が国は先の大戦で大きな悲しみを味わったからでもあると思います。今の若い人にはこんなこと言ってもわからないんじゃないかという意見ももらいました。だけど子供と接する時、まだこんな小さい子じゃわからないとか、覚えてないとか言うのは大人であって、実は子供は見ているとこ、覚えていること、きちんと考えているところもあって逆にこちらが驚かされます。自分の意見を押し付けたり、操作したりするのではなく本当に大事なのは正しい情報(歴史)を後世にそのまま伝えることであり、理解や判断はその受けた個人がするものだと思います。僕は祖父に戦争の話を聞きました。今ではもうそんな80年前の体験談を語れる人はいません。だから祖父に聞いた話をまた自分の孫に伝えたい。次世代に正しい歴史を伝えない民族は衰退していくと言われます。ただ記念館で手を合わせるより、誰かがこれを伝えなければと思いました。僕は平和会館で受けた思い、感じたバトンをまた次に渡しますと彼ら(英霊)に約束して館を去りました。歴史を知らなければ読めないのではなく、ここを始めとして紐解き、自国の歴史の扉を知っていってほしいです。


たとえ一人でも日本の本当の歴史に興味を持ってくれれば俺は嬉しいなぁ。

参照:            新編 知覧特別攻撃隊 高岡修 編

写真:            新編 知覧特別攻撃隊 高岡修 編、

       知覧特攻平和会館

2 件のコメント

  1. ほや子
    青年達の無邪気な笑顔の写真に胸が苦しくなります。 このように記録に残すことを許された人達はほんの一握りであること、その想像力を忘れずにいたいです。
    • そうですよね。ほんの一握りですよね。 忘れずにいたいし、そのままを伝えていきたいです。 今回は重いテーマに関わらずコメントありがとうございました。

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