愛する子供達に捧ぐ、
窓を開けると9月の空は透き通るような青さだった。
遠い小さな鰯雲が風にゆっくりと流されながら白く霞んでいった。
時は1988年、秋。
俺は陸上トラックの脇にあるトレーニングルームで選手村の食堂から届いた遅いランチを食べていた。
数日前は誰も治療に来てくれなかったのだがチームドクターのアナウンスで選手が練習後のマッサージも受けられると知り、今日も予約がいっぱいで忙しくて食事の時間すらなかった。
昨晩は選手村主催のディスコパーティーがあってみんなお酒は飲まないけど踊って騒いであたかもオリンピックの緊張を揉み解すような盛り上がりだった。自分がその輪の中にいるのが不思議な感じがする。
英語もろくに話せない22歳の小僧の周りにはカールルイス、ジョイナー、ウイリーバンクス、、、と世界記録を持っている赫灼(かくしゃく)たるスーパースターが居並び、パーティー主催側のスタッフはただ一人の日本人の俺を不思議そうな顔で見ていた。
米国ソウルオリンピック陸上チームトレーナー兼鍼灸師。
それが俺の世界デビューの肩書きでチームドクターのDr. John Russelから最初に呼ばれた “Take” が俺のニックネームになった。
まだ鍼灸の免許を取りたてでろくな治療が出来なかったけどマッサージは学生の時からバイトでやっていて数をこなしていたから自信はあった。特にスポーツマッサージが得意な俺は陸上選手達に気に入られてほぼチーム全員の脚を揉ませてもらった。
リラックスしていると柔らかいが一旦収縮すると鋼のようになる脚の筋肉に驚いた。
これで1cm 遠くに飛べるようになったと笑いながらアキレス腱の鍼灸治療の後に肩を叩いてくれたウイリー。
マッサージのお礼にとオリンピック公式ユニフォームをくれたカール。
ジョイナーと一緒に選手村の食堂でご飯を食べた時に“あなたの夢は何”って聞かれた。
おっちょこちょいな俺は背伸びして、
“アメリカで、鍼灸で、トップのドクターになる!”って答えた。
彼女は長い爪を俺の肩に置いて耳元で囁くように一言唱えた。
“Believe in yourself”(自分を信じるのよ!)
鍼灸なんて人は見たことも聞いたこともない時代、欧米の人達がまだ箸がうまく使えなかった時代の話である。
そして今思い出しても、彼らとの邂逅(かいこう)がその後の運命を変えたと言えるだろう。
窓から見たトラックには人影もまばらで殆どの選手が練習を終えていたようだった。
競技場の真ん中で一人の選手が膝を抱えて座っていた。
何気なく下のフィールドに降りてその選手の方に歩いていった。
彼女の素振りからなんか痛みがあるようだった。
大丈夫?
膝が痛くて、、、もう跳べないわ
鍼治療してみる?
オリンピック直前の練習で膝を痛めたらしい。鍼治療のことは想像もつかず、よくなるならなんでも試したいと彼女は言った。
彼女にとっては走り高跳びで米国を代表して来て、最後の土壇場で痛めて、藁にもすがる思いだったに違いない。
一緒にトレーニングルームに行って、鍼治療を試みた。ただどうすれば膝の痛みが取れるかなどまだ免許を取ったばっかの俺にはさっぱりわからなかった。膝の周りの筋肉を緩めて、経絡の停滞を取り除き、、、えっとぉ、膝の特効穴ってどこだったっけ、、、色々考えてもしょうがないけど、、、少しでも楽にしてあげたい、、、
無知で、経験もなく、怯懦(きょうだ)だった俺。だが同時に衒いも気負いもなくただただ痛みを軽くしてあげたい。
そんな無の境地だった。精一杯やった。
一所懸命の治療は技ではなく、そんな氣を伝えただけだったように思う。
治療後にトレーニングルームを後にした彼女に英語でうまく伝えられず、後ろ姿に無言のエールを送った。
早くよくなりますように。いい風が、あなたに吹きますように。
2週間の帯同も終わり、選手にサインやユニフォームをもらったりして小僧の幸運な最初のデビューは終わった。
エピローグ
ソウルオリンピック米国チームは金メダル36個、メダル総数100獲得。
その殆どが陸上選手の活躍だった。俺は端っこでもおまけでも集合写真に写っている俺を自分なりに誇らしく思っていた。
そんな矢先、1枚の絵葉書が届いた。
メダルを半分に分けてあなたにあげたい気持ち。
ありがとう、Take。
誰も知らない。知る必要もない。アスリートと二人だけの勲章。
俺はこの仕事をするために生まれてきたんだと勝手に諾う(うべなう)自分がいた。
ルイス・リッターは女子走り高跳びで絶対王者である世界記録(先日37年ぶりに“眠れる美女”マフチフに破られる)保持者のブルガリアのステフカが失敗した後の2m 03のジャンプオフに挑み、自己新記録を叩き出し、見事金メダルを獲得した。
痛みに打ち勝って、プレッシャーを跳ね除けて、そして世界のトップアスリートを凌駕した彼女の控えめな笑顔は、格別だった。